薬物の尿検査を破るする方法
学校薬剤師研究会::薬物乱用・ドーピング
【ダルクに通う32歳男性の話】
人前で話す事は緊張します。気が小さいんです。
その気が小さい自分が嫌いで「くすり」を使っていました。
二十歳の頃から28歳まで「くすり」を使っていました。
「くすり」は一般的には、覚醒剤やシンナー、マリファナなど違法の薬を想像されると思います。実際には「くすり」というのは色んなのがあって、薬局で売られている、咳止め、風邪薬、鎮痛剤もあります。病院で処方される睡眠導入剤もあります。
僕は「脱法ドラッグ」といわれるそちらの「くすり」を使っていました。実際に使っていたのは「睡眠導入剤」がすごく好きでした。お酒と一緒に飲んだりしていました。薬局で売っている「咳止めの薬」も好きでした。「鎮痛剤」もよく飲んでいました。
飲んでいた理由は、気分をハイにして、気持ち良くなるために大量に飲んでいました。苦しむ為に飲んでいた訳ではなく、楽になりたかったのです。言い訳に聞こえますが、「くすり」やお酒に逃げないとやっていられなかったのです。
生まれはある地方都市の田舎の町で、家族は祖父、祖母、両親、自分、弟の6人家族でした。祖父は大酒のみで、しらふの時はすごく大人しい人でしたが、お酒を飲むと暴れたりからんだりする人でした。祖母は気の強い人で、祖父と祖母はよくけんかをしていました。父はすごく厳しい人で、今思えば僕を立派な人間にしたかった、祖父のようにさせたくなかったのだと思います。一生懸命勉強して、良い学校に入って、良い会社に入ってというのを願っていたのだと思います。
父は地元の有名な会社のお偉いさんだったので、自分のように立派な人間になりなさいというようなことをいつも言われてました。僕は父の事がすごく恐かった。真面目なことを要求されていました。ちょっとでもふざけた事やお下劣なことを言うとすごい剣幕で怒られました。時にはたたかれました。
学校の成績のことを一番厳しく言われました。僕は気が進まなかったけれど、塾にも行かされました。父の事が恐かったので、父の期待に応えようと自分なりに一生懸命やっていました。癒しの時間とかホッとできる時間を過ごした記憶が余りありません。怒られたとか、もっとしっかりしろと言われた記憶しかありません。家族に対して暖かさを今でもイメージ出来ません。
なぜ美的薬?学校に行ってて、よくいじめられました。たたかれたりは日常茶飯事でした。いじめられる事がすごいストレスでした。そのことを親には言えませんでした。言えば、父からもう少ししっかりしろとか言われるのが分かっていて、そう言われるのが恐くて言えませんでした。
ある時期から、自己防衛の方法を考え、人と一切関りを持たず、心を閉ざしていました。どこに居ても居場所がありませんでした。学校ではいじめられるし、家では父は恐いし、祖父は酒飲んで暴れてるし、心を開ける友達もいなかったし、いつも孤独感、寂しさをかかえていました。
十代の中頃から引きこもりがちになっていました。その頃から音楽に興味を持ち、音楽をする時間だけが幸せでした。十代の終わり頃まで引きこもりがちな生活をしていました。いつも一人で、人と関りを持たない生活をしていました。音楽で生活できるような職につけたらいいなと思っていました。
仕事は結局父と同じ会社に就職しました。そこでは全然馴染めませんでした。不器用なりに一生懸命働いたのですが溶け込めませんでした。自分の居場所とは感じられませんでした。
「くすり」には十代の頃から興味を持っていました。海外の有名なミュージシャンがヘロインを使って死んだとか、LSDで頭が飛んだとか言う話を聞くと、一体どんな物なんだという好奇心がありました。
音楽仲間の情報で「咳止めの薬」を一気飲みするとハイになれるという噂が飛び交いました。僕も薬局で咳止めの薬を3本買って飲みました。味はとても飲めたものでありませんでしたが、すごくテンションは上がりました。普段すごく気が小さく弱虫なのが、「くすり」を使うとすごく元気になれました。これさえあれば上手く出来るんじゃないかなという思いが出て来ました。
薬を使い出して最初のうちは、すごくはまっているという感じではありませんでした。ある時、すごく好きだった女の人に振られ、その現実がけ入れられなくて、裏切られたという気持ちが出てきて、それから「くすり」に歯止めがきかなくなりました。
咳止めの錠剤の薬、10錠20錠30錠から始まり、耐性が出来て効かなくなります。 次は50錠になり80錠になり100錠になり最終的に1回500錠飲むまでになっていました。
精神科看護師の給与は、ジョージア州に何がある効いている時はいいのですが、「くすり」の切れ目がとにかくきついのです。体の中に鉛を入れられたかのように動けないのです。それじゃどうにもならないから、また「くすり」を飲む。それで何とか動けるのです。
仕事はしていましたが、四六時中「くすり」をやるようになっていました。仕事でのトラブルも起こしましたし、自動車事故も何回も起こしました。結局仕事はやめました。 そのうちかまってくれる人も段々いなくなりました。仲の良い音楽仲間もいましたが、いつも「くすり」を使っている僕をかまってくれるほどヒマではなく、みんな離れていきました。
いつもレロレロになって、親とはいつも喧嘩していました。母は泣いて、真面目になってくれとは言わないけれど「くすり」だけはやめてと言いました。頭では分かるんです。でも「くすり」を使っている時の僕はどこか狂っていて、どうでもいいんです。人が傷つこうが、泣こうが、僕にとって大した問題ではないのです。一番大事なのは、「くすり」を今日どこから引っぱって来るか、お金をどうするか、とかそういう事だけになっているのです。「くすり」を止めろと言われることがすごく鬱陶しかったのです。
5年目くらいにどうにもならなくなり、精神病院に入院する事になりました。一瞬しらふに戻るので、両親に迷惑かけたし、友達にも迷惑かけるから、いつも薬局に入り浸るような生活は止めようと強く心に誓うんだけれど、体も元気になり病院を出ると、いとも簡単に「くすり」を使う自分がいたのです。
何をやっても止められないのです。色んな努力はしてみました。「くすり」に代わる趣味を持とうとスケボーやってみたりしても、何かシックリこない、楽しくない、結局最終的にまた「くすり」を使ってしまうのです。
2回目の入院の時に先生からダルクに行くかと言われました。あるダルクに母と行きましたが、その時ダルクは魅力的とは思えませんでした。そこには沢山の「薬中」の人がいて、傍から見ていてすごく恐そうで、こんな所で共同生活とか言われてもイヤでした。
何より僕は、「くすり」は自分で止められると思っていました。僕が使っている「くすり」は覚醒剤やシンナーではないし、いわゆる捕まらない「くすり」だからという、「くすり」を使う事に対しての罪悪感がありませんでした。
phyisicanになる方法その時はダルクには行きませんでしたが、スタッフの人から一枚のチラシをもらいました。NAというダルクとは別の自助グループで、行ってみなさいと言われ、NAに行き始めました。NAで何をやっているかと言うと、ミーティングと言われるもので、自分が使っていた「くすり」の話だとか、例えば、今「くすり」を使いたいなら使いたいと正直に言う、一種のグループセラピーのようなものです。
NAに行って色んな話を聞いても、僕はこの人たちみたいに酷くはないとしか思えませんでした。ただ、その人たちの事は嫌いではありませんでした。みんな優しくて、僕にすごく優しくしてくれました。「くすり」を使って誰からも相手にしてもらえなかった時に、唯一受け入れてくれる場所がNAでした。しかしそこでも「くすり」は止められませんでした。
「くすり」を使い始めて8年目、底付きの状態の時がきました。仕事もない、貯めていたお金も「くすり」に使ってしまい、友達もいない、好きな女の人もいない、ほんとに一人でした。何もかも無くなってしまいました。人とコミュニケーションをとる事もままならない状態で、生きていく自信がありませんでした。
「くすり」を使い続けても明るい未来は無いということは分かるけれど、「くすり」を手放す事が恐かったのです。自分から「くすり」を取ったら何が残るのか、必死に「くすり」にしがみついて生きていました。「くすり」を使っても俺は大丈夫と言っていましたが、心の中は寂しかったのです。NAの仲間に対しても、違い探しをしていました。僕が使っている「くすり」は合法だからとか、自分は違うとか。
「くすり」をやっていて人それぞれ生き方は違うけど、共通している部分が一つだけあります。「くすりによって生きる事がどうにもならなくなった」ということです。「くすり」の種類には関係ありません。「くすり」を使い続けては楽にはなれませんでした。
それからこちらに来てダルクでリハビリをさせてもらうようになりました。今「くすり」を止めて4年になります。4年経っても、「くすり」は今だに使いたいのです。何で今「くすり」に手を出さないかと言うと、ダルクでやっているリハビリの効果があるのだと思います。身近な仲間が「くすり」を使ってヨレヨレになっている姿を見たりするとすごく恐いと思います。
今「くすり」を使うと元の自分に戻ってしまう。昔のような孤独で、寂しくて、汚くて、「くすり」にしがみついて何時も死ぬことばかり考えているような生き方をもうしたくはありません。
同じ病気の仲間から言われた事があります。僕はしらふでは何も出来ない気の小さな人間で、そういう自分がイヤでいつも「くすり」を使っていました。そのことを仲間に話していたら、ある仲間から言われました。
「いいじゃん、弱くて」
「弱くて何が悪いの」
「弱くてもいい、その弱い自分を許してやれよ」
「くすりを使ってきた自分を否定するんじゃなくて、そういう自分を認めてやれよ」
すごくショックでした。そんな事を言われた事がありませんでした。
親も友達もいろんな人が愛情を持って接してくれていたんだという事が、今しらふになって分かります。僕は本当に心が開けない人間でした。その心を開いてくれたのは同じ病気のダルクとかNAの仲間でした。自分にとってダルクとかNAの仲間はとても大切です。一人で「くすり」を止めようと思っても止められませんでした。「くすり」を使う生き方を否定する気は無いのですが、「くすり」を使わない生き方の方が良いという事は今分かります。
ダルクは「くすり」を止めたい人が集まる所です。「くすり」を止めさせる所ではありません。ダルクは、来た人に薬を使えとも使うなとも言いません。もし薬を再使用してしまっても、薬をやめたい気持ちがあれば、誰でもダルクでリハビリを受けることが出来ます。僕自身もそうしてもらってきました。仲間は僕がいくら「くすり」を使っても受け入れてくれました。それがあったから、今の自分があると思います。
もし皆さんの周りに薬物依存の人がいたら、ダルクという場所があることを教えてあげてください。
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