朝、7時起床。急いで熱を測る。38度を少し下回っている。これなら大丈夫だ。睡眠を充分にとった所為か、体の痛みも少し薄らいでいる。食欲も少しある。キッチンでお湯を沸かしているとブラッドが起きてくる。一目みて、顔色が悪いのが判る。苦しそうな咳もしていた。ぼくの風邪がうつったのだ。手にボール箱を担いでいる。ぼくへのプレゼントだと言う。靴だった。キエフには世界一の靴があるというのをブラッドが話していた事がある。昨夜、ぼくが寝ている間に町に出て買ってきたらしい。師に従って、2週間、ルーツ探しの道案内を務め、あれこれ怒鳴られた挙句、今また、手土産まで用意してくれている。いじらしい教え子ではある。
ブラッドの帰りの便は彼の頼みで、2週間後にしてある。ぼくを飛行場に送った足で、生まれ故郷のウガンスクに向け300キロ程、東に旅立つことになっている。今日からはれて自由の身となり、故郷で首を長くして待っている両親のもとに往く。まだ若い身体だから、ぼくみたいに風邪をこじらせる事はあるまいが、念のためアスピリンを服用するように勤めた。熱いお茶に蜂蜜を入れて飲めば直ぐなおるから大丈夫だ、と言うところはやはり未だ子供である。
10時半、テムールのアパートを出る。ボリスポル飛行場は何回も往復したおかげで、迷いもせず、正午前に予定どうり到着。アプテカ(薬局)を探しあててブラッドにアスピリンを買ってやる。押し付けて置かなければ、彼の事だから、恐らく薬を飲むのを忘れる疑いがあった。案の定、熱を出して大変な旅になってしまったらしいが、それは後の話である。キエフの国際空港は離陸の着陸も同じ時間帯に集中されているらしく、この時間はいつきても大変な混雑だった。
ブラッドには長らく世話をかけた。サン フランシスコでの再会を約して、ぼくは一人パスポート検察室へ向かう。入国する時書き込んで、スタンプをおして貰ったカストムズの申告書をうっかり紛失して、ここで差し止められたと言う逸話を良く聞く。無難に通過する事ができてほっとする。ここが最後の関門である。
"Please, come again!"
検察官がにこやかに挨拶してくれる。
"Thank you. I will." と、ぼくは答えた。これは本音である。
来た時は、飛行機がゲイトに横付けになり、そのままロビーに降り立ったが、帰りはゲイトで待機しているバスに乗り込んで、滑走路の飛行機まで行かなければならなかった。できるだけ、歩行を避けて、体力をセーブするべきなので、一寸、失望した。階段のステップを一段一段踏みしめて飛行機の中に入る。ぼくの席は7B、入り口に近く、アイル側である。トイレを頻繁に往復しなければならないから、通路に面した席に座れるのは助かる。飛行場に着いて以来、歩き続けたからだろう。背中を汗が滝のように流れるのが判った。アンダーシャツはぐっしょり濡れている。できれば汗をふき取りたいのだが、無理な相談だろう。又、疲れてきた。オーバーヘッドのラッゲージ入れをあけて、持ち込んだスーツケース を収める。背中のバックパックは下ろして前の席の下と床の間に収める。幸い隣りの客はまだ来ていない。座って一人だけのスペースを利用して足と腕をゆっくりと伸ばした。体の熱は昼過ぎになるとあがり始めるものである。バックパックを背にラッゲ−ジをひっぱっての行軍である。寒気を感じる。けだるいし、睡魔が襲って来る。
腕時計を見る。2時半を少し過ぎている。離陸の時間である。搭乗してくるパッセンジャーの人影も途絶えがちで、乗組員がいそぐようにアイルを往復している。離陸は直ぐだ。左の席は未だ空席のままである。ぼくはしめたと思った。最近の旅客機は客席の数を最大限に施設するから、身動きもできぬほど狭い。隣りの席に誰もこないとなると旅が大変楽になるのだが。
睡魔に誘われて、2,3分だろうか、うとうとしたらしい。ふと人の気配を感じて頭を上げる。若い女が立っている。手にしたパスポートを雑誌か封書を扱うように、隣りのシーツに投げだす。彼女の席だという意味である。ウクライナ共和国発行のパスポートだった。ぼくは急いで立ち上がった。女は小型のラッゲ−ジを手にしている。ぼくのラッゲ−ジの横がまだ空いているのを見届けているので、ぼくは女の荷物を受け取り、ラッゲ−ジ用のコンパートメントに入れる手助けをした。
"Thank you very much!" 女が言った。
"You are very welcome." と、ぼく。
少しアクセントはあったが、綺麗な英語の発音だった。狭いアイルで互いの体の位置を入れ替えなければならない。当然、腕と、腰と、肩と、胸が接触する。
"Excuse me!" 彼女が謝る。
"That's O.K." と、ぼくは答えたが。向こうがぶつかってきたのである。ぼくの腕は女の胸に触れて、やわらかい肉の感触を甘受していた。ぼくは少し不安になった。今日の旅は無難に済ませたい。話し相手も要らないのだから、そっと、ほっといて貰いたいなと思う。女はシート ベルトを締める要領がわからない。黙っているのは不自然なので、手伝ってやる。そのとき女の顔を正面から見る事ができた。美しい人である。見慣れた親しみのある顔でもあった。ウクライナの女性は美人だと言う人は多い。しかし彼女は典型的なスラブ系女性の顔ではなかった。ウクライナの美人は金髪で肌が青白い。柳腰で華奢な骨柄が特徴である。ぼくの隣りに座った若い女性は、彫りの深いブルネット、滑らかでよく陽にやけた肌と、茶色い瞳に魅力が あった。ユダヤ人である。
ぼくは、生涯、結婚を二度している。ハイヂとはだから再婚である。最初の妻もユダヤ人だった。偶然である。近しく付き合った女性にユダヤ人が多かったからだろう。アメリカには旧ロシア帝国時代のユダヤ人、一般にアシカナジ系ユダヤ人と呼ばれる人たちが沢山、移住してきた。当然ぼくの大学や道場にも登録してくるユダヤ系の学生が沢山いたのである。
ぼくはユダヤ系の女性を彼女がユダヤ人だからという理由で交際を避けたことは一度もない。ユダヤ人系の女性の方もぼくが日本人だから、或は東洋人だからと言う理由で交際を断わってきたものはない。皮肉な話であるが、ぼくは日本女性の肉体を知らない。渡米してきたのは29歳の時、健康な男性のつもりであったが、日本では誰も相手にしてくれなかった。人並みに、さかりのついた犬みたいに、女性と見ればその尻を追ってばかりいたが、とうとう童貞のまま渡米してきてしまっている。
サン フランシスコに来て感激したのは、女性が大変、積極的だった事である。最もあのころは、フラワー チャイルドと言うヒッピーの時代で、エイズなどと言う危険な病気も出回っていなかったから、フリー セックスが安心してできた為かもしれない。だから、こうしてユダヤ系の女性が隣りに座ると、肉体的な警戒心が薄れる。安心して真剣な会話が交わせる。冗談も言えるし、馴れ馴れしく、相手の身体に触れて、いちゃつくことだって、やろうと思えばできる。女の身体を、隅々までその感触で知っているからである。しかしこれが日本の女性だとそうは行かない。勝手が判らないから、傷つけないよう、或は傷つかないようにと、警戒心ばかりが先立ってしまう。
ぼくの今日は、しかし、そんな洒落っ気が全くない。目的はアメリカの国内に入って必要とあれば手配をして医学的な治療を受ける事だけである。隣りは本を出して読み出したので、ぼくは目を閉じ、少しでも睡眠をとる事にした。本は露文だった。何を読んでいるのか興味があったが、わざと聞かないようにした。
キエフからワルショァまで僅か2時間である。しかしブラッドから気になる話を聞かされている。ポーランド人はウクライナ人の独立を快く思っていない。ウクライナが一時、ポーランドの地であった事があるから当然の話だろうが、ブラッドが前回ウクライナに来た時は鉄道だった。ロシア語を話すブラッドはワルシャワの税関で、たらい回しにされたらしい。所持品のバッグを空にされて検察官から検察官を数人歩き回って、挙句の果ては所持品の半分を没収されたと言うのである。ワルシャワはアウシビッチのあるところである。いつか行って見たいところであるが、今回は検察官からいちゃもんのつかないよう、無事を祈るばかりである。体が弱ると、人間、何をするにも弱気になるらしい。
だれかぼくの腿に手を触れるものがいた。隣りの女性である。トイレにたちたいという。ぼくは急いで、道を明けた。今回はお互いに体を触れずに場所を交換できた。会話を始めたのは席に戻ってきた彼女の方からだった。ウクライナはビシネスかと聞く。そうじゃないとぼくは言う。実は女房の先祖の出生地が分かったので、墓参りをかねて、ルーツ探しにきたと正直に話した。話が長引くのは嫌なので、女房がユダヤ人だということは隠しておいた。奥さんときたと言うが、どうして別れて旅をするのかと聞かれる。確かに当を得た質問である。ぼくは「マイルス プラス」のシステムを説明して、会社の違う「マイルス プラス」だったので、一緒に旅ができない。会話は向こうから始められたので、こちらからも 何か質問しておかないと失礼になるので、ウクライナは何処からとだけ聞いてみた。クリミアからだという。クリミアは裕福なユダヤ人祖界があることで知られている。成る程なと思う。
隣同士が横に座って話をすると、どうしても、顔をひねって相手の上半身に向けなければならない。女の栗色に濡れた唇が目の前にあり、目を落とすと、女の豊かな胸元がはだけて見える。ピンクのブラジアの縁飾りが、乳房に密着している。盛り上がった二つの乳の谷間に金色のネックレスがある。ペンダントは「ダビデの星」だった。ぼくは少しめまいを覚えた。濡れた唇は女の膣を連想させたからである。ぼくの舌先は羞毛を避けて、女の肉の間隙を探っていた。女が深く吐息を漏らすのを聞いた。
ぼくは彼女に少し疲れたので休ませてもらうと断った。明らかに熱があがってきている。妄想は全て高熱のためだと言い聞かせて、眠りにつく。コックピットからのスピーカーからキャピテンの声が流れてきて目が覚めた。ワルシャワ着5分前だと言う。ぼくはトイレに一度もたたなかった事に気が付いた。熱が高くて水分が蒸発してしまったのだろうか。とにかく一度だけでもと思い行って置いた。席に帰ると飛行機は低行し始めていた。車輪が滑走路に接触して、金属製の音を発した。窓から見えるワルシャワの空港は灰色だった。ゲイトに停車して、乗客はシートベルトのバックルをはずして立ちあがった。
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