2012年5月31日木曜日


朝、7時起床。急いで熱を測る。38度を少し下回っている。これなら大丈夫だ。睡眠を充分にとった所為か、体の痛みも少し薄らいでいる。食欲も少しある。キッチンでお湯を沸かしているとブラッドが起きてくる。一目みて、顔色が悪いのが判る。苦しそうな咳もしていた。ぼくの風邪がうつったのだ。手にボール箱を担いでいる。ぼくへのプレゼントだと言う。靴だった。キエフには世界一の靴があるというのをブラッドが話していた事がある。昨夜、ぼくが寝ている間に町に出て買ってきたらしい。師に従って、2週間、ルーツ探しの道案内を務め、あれこれ怒鳴られた挙句、今また、手土産まで用意してくれている。いじらしい教え子ではある。

ブラッドの帰りの便は彼の頼みで、2週間後にしてある。ぼくを飛行場に送った足で、生まれ故郷のウガンスクに向け300キロ程、東に旅立つことになっている。今日からはれて自由の身となり、故郷で首を長くして待っている両親のもとに往く。まだ若い身体だから、ぼくみたいに風邪をこじらせる事はあるまいが、念のためアスピリンを服用するように勤めた。熱いお茶に蜂蜜を入れて飲めば直ぐなおるから大丈夫だ、と言うところはやはり未だ子供である。

10時半、テムールのアパートを出る。ボリスポル飛行場は何回も往復したおかげで、迷いもせず、正午前に予定どうり到着。アプテカ(薬局)を探しあててブラッドにアスピリンを買ってやる。押し付けて置かなければ、彼の事だから、恐らく薬を飲むのを忘れる疑いがあった。案の定、熱を出して大変な旅になってしまったらしいが、それは後の話である。キエフの国際空港は離陸の着陸も同じ時間帯に集中されているらしく、この時間はいつきても大変な混雑だった。

ブラッドには長らく世話をかけた。サン フランシスコでの再会を約して、ぼくは一人パスポート検察室へ向かう。入国する時書き込んで、スタンプをおして貰ったカストムズの申告書をうっかり紛失して、ここで差し止められたと言う逸話を良く聞く。無難に通過する事ができてほっとする。ここが最後の関門である。

"Please, come again!"

検察官がにこやかに挨拶してくれる。

"Thank you. I will." と、ぼくは答えた。これは本音である。

来た時は、飛行機がゲイトに横付けになり、そのままロビーに降り立ったが、帰りはゲイトで待機しているバスに乗り込んで、滑走路の飛行機まで行かなければならなかった。できるだけ、歩行を避けて、体力をセーブするべきなので、一寸、失望した。階段のステップを一段一段踏みしめて飛行機の中に入る。ぼくの席は7B、入り口に近く、アイル側である。トイレを頻繁に往復しなければならないから、通路に面した席に座れるのは助かる。飛行場に着いて以来、歩き続けたからだろう。背中を汗が滝のように流れるのが判った。アンダーシャツはぐっしょり濡れている。できれば汗をふき取りたいのだが、無理な相談だろう。又、疲れてきた。オーバーヘッドのラッゲージ入れをあけて、持ち込んだスーツケース を収める。背中のバックパックは下ろして前の席の下と床の間に収める。幸い隣りの客はまだ来ていない。座って一人だけのスペースを利用して足と腕をゆっくりと伸ばした。体の熱は昼過ぎになるとあがり始めるものである。バックパックを背にラッゲ−ジをひっぱっての行軍である。寒気を感じる。けだるいし、睡魔が襲って来る。

腕時計を見る。2時半を少し過ぎている。離陸の時間である。搭乗してくるパッセンジャーの人影も途絶えがちで、乗組員がいそぐようにアイルを往復している。離陸は直ぐだ。左の席は未だ空席のままである。ぼくはしめたと思った。最近の旅客機は客席の数を最大限に施設するから、身動きもできぬほど狭い。隣りの席に誰もこないとなると旅が大変楽になるのだが。

睡魔に誘われて、2,3分だろうか、うとうとしたらしい。ふと人の気配を感じて頭を上げる。若い女が立っている。手にしたパスポートを雑誌か封書を扱うように、隣りのシーツに投げだす。彼女の席だという意味である。ウクライナ共和国発行のパスポートだった。ぼくは急いで立ち上がった。女は小型のラッゲ−ジを手にしている。ぼくのラッゲ−ジの横がまだ空いているのを見届けているので、ぼくは女の荷物を受け取り、ラッゲ−ジ用のコンパートメントに入れる手助けをした。

"Thank you very much!" 女が言った。

"You are very welcome." と、ぼく。

少しアクセントはあったが、綺麗な英語の発音だった。狭いアイルで互いの体の位置を入れ替えなければならない。当然、腕と、腰と、肩と、胸が接触する。

"Excuse me!" 彼女が謝る。

"That's O.K." と、ぼくは答えたが。向こうがぶつかってきたのである。ぼくの腕は女の胸に触れて、やわらかい肉の感触を甘受していた。ぼくは少し不安になった。今日の旅は無難に済ませたい。話し相手も要らないのだから、そっと、ほっといて貰いたいなと思う。女はシート ベルトを締める要領がわからない。黙っているのは不自然なので、手伝ってやる。そのとき女の顔を正面から見る事ができた。美しい人である。見慣れた親しみのある顔でもあった。ウクライナの女性は美人だと言う人は多い。しかし彼女は典型的なスラブ系女性の顔ではなかった。ウクライナの美人は金髪で肌が青白い。柳腰で華奢な骨柄が特徴である。ぼくの隣りに座った若い女性は、彫りの深いブルネット、滑らかでよく陽にやけた肌と、茶色い瞳に魅力が あった。ユダヤ人である。

ぼくは、生涯、結婚を二度している。ハイヂとはだから再婚である。最初の妻もユダヤ人だった。偶然である。近しく付き合った女性にユダヤ人が多かったからだろう。アメリカには旧ロシア帝国時代のユダヤ人、一般にアシカナジ系ユダヤ人と呼ばれる人たちが沢山、移住してきた。当然ぼくの大学や道場にも登録してくるユダヤ系の学生が沢山いたのである。

ぼくはユダヤ系の女性を彼女がユダヤ人だからという理由で交際を避けたことは一度もない。ユダヤ人系の女性の方もぼくが日本人だから、或は東洋人だからと言う理由で交際を断わってきたものはない。皮肉な話であるが、ぼくは日本女性の肉体を知らない。渡米してきたのは29歳の時、健康な男性のつもりであったが、日本では誰も相手にしてくれなかった。人並みに、さかりのついた犬みたいに、女性と見ればその尻を追ってばかりいたが、とうとう童貞のまま渡米してきてしまっている。

サン フランシスコに来て感激したのは、女性が大変、積極的だった事である。最もあのころは、フラワー チャイルドと言うヒッピーの時代で、エイズなどと言う危険な病気も出回っていなかったから、フリー セックスが安心してできた為かもしれない。だから、こうしてユダヤ系の女性が隣りに座ると、肉体的な警戒心が薄れる。安心して真剣な会話が交わせる。冗談も言えるし、馴れ馴れしく、相手の身体に触れて、いちゃつくことだって、やろうと思えばできる。女の身体を、隅々までその感触で知っているからである。しかしこれが日本の女性だとそうは行かない。勝手が判らないから、傷つけないよう、或は傷つかないようにと、警戒心ばかりが先立ってしまう。

ぼくの今日は、しかし、そんな洒落っ気が全くない。目的はアメリカの国内に入って必要とあれば手配をして医学的な治療を受ける事だけである。隣りは本を出して読み出したので、ぼくは目を閉じ、少しでも睡眠をとる事にした。本は露文だった。何を読んでいるのか興味があったが、わざと聞かないようにした。

キエフからワルショァまで僅か2時間である。しかしブラッドから気になる話を聞かされている。ポーランド人はウクライナ人の独立を快く思っていない。ウクライナが一時、ポーランドの地であった事があるから当然の話だろうが、ブラッドが前回ウクライナに来た時は鉄道だった。ロシア語を話すブラッドはワルシャワの税関で、たらい回しにされたらしい。所持品のバッグを空にされて検察官から検察官を数人歩き回って、挙句の果ては所持品の半分を没収されたと言うのである。ワルシャワはアウシビッチのあるところである。いつか行って見たいところであるが、今回は検察官からいちゃもんのつかないよう、無事を祈るばかりである。体が弱ると、人間、何をするにも弱気になるらしい。

だれかぼくの腿に手を触れるものがいた。隣りの女性である。トイレにたちたいという。ぼくは急いで、道を明けた。今回はお互いに体を触れずに場所を交換できた。会話を始めたのは席に戻ってきた彼女の方からだった。ウクライナはビシネスかと聞く。そうじゃないとぼくは言う。実は女房の先祖の出生地が分かったので、墓参りをかねて、ルーツ探しにきたと正直に話した。話が長引くのは嫌なので、女房がユダヤ人だということは隠しておいた。奥さんときたと言うが、どうして別れて旅をするのかと聞かれる。確かに当を得た質問である。ぼくは「マイルス プラス」のシステムを説明して、会社の違う「マイルス プラス」だったので、一緒に旅ができない。会話は向こうから始められたので、こちらからも 何か質問しておかないと失礼になるので、ウクライナは何処からとだけ聞いてみた。クリミアからだという。クリミアは裕福なユダヤ人祖界があることで知られている。成る程なと思う。

隣同士が横に座って話をすると、どうしても、顔をひねって相手の上半身に向けなければならない。女の栗色に濡れた唇が目の前にあり、目を落とすと、女の豊かな胸元がはだけて見える。ピンクのブラジアの縁飾りが、乳房に密着している。盛り上がった二つの乳の谷間に金色のネックレスがある。ペンダントは「ダビデの星」だった。ぼくは少しめまいを覚えた。濡れた唇は女の膣を連想させたからである。ぼくの舌先は羞毛を避けて、女の肉の間隙を探っていた。女が深く吐息を漏らすのを聞いた。

ぼくは彼女に少し疲れたので休ませてもらうと断った。明らかに熱があがってきている。妄想は全て高熱のためだと言い聞かせて、眠りにつく。コックピットからのスピーカーからキャピテンの声が流れてきて目が覚めた。ワルシャワ着5分前だと言う。ぼくはトイレに一度もたたなかった事に気が付いた。熱が高くて水分が蒸発してしまったのだろうか。とにかく一度だけでもと思い行って置いた。席に帰ると飛行機は低行し始めていた。車輪が滑走路に接触して、金属製の音を発した。窓から見えるワルシャワの空港は灰色だった。ゲイトに停車して、乗客はシートベルトのバックルをはずして立ちあがった。

2012年5月20日日曜日


出典: 八百科事典アンサイクロペディア(大丈夫、本当の項目名はユアペディアだから。君は間違っていないよ。

日本帝國ユアペディア (ニホンていこく - , Yourpedia in the Great Empire Of Japan) は、ウィキペディアを上回る信頼性の高いフリー百科事典である。ネットウヨに乗っ取られてから支持されている。正式名称は舊称はユアペディア(Yourpedia)で、2010年5月27日に、現在の名称に勝手に改称された。と思ったら、2010年7月18日にsysopが元に戻して編集保護をかけた。実態は帝國とは名ばかりで、ソマリアのような無政府状態である

2011年春頃から8月下旬まで、何故か音信不通状態に陥っていた。全く、視野の狭いアンチの思うツボだぜ(怒)

ユアペディアは、ウィキペディアが「もともと海外のサイトなのでの情報の精度が悪い」ことと「百科事典としては使えない」という問題点を喝破した人民の星偉大なる将軍様吉本敏洋同志(ハンドルネーム「Beyond」。「悪徳商法?マニアックス」主宰)によって設立された、フリーの百科事典である。現在、管理者2名(実質1名のみ)、登録ユーザ数123名、記事数3,663本(日本標準時2007年11月10日午後9時6分30秒現在)。

最新では、管理者4名、登録ユーザ数2,057名、記事数15,289本まで増加。記事数だと三役に入るが、まだまだこれからだ。2012年2月28日 (火) 06:35 (JST)時点

[編集] 突然の帝国崩壊、そして記憶喪失

ところが2010年7月末、突然アクセス不能に陥る(IPアドレスで呼び出しても「アクセス出来ません―サーバーが見つからないか、DNSエラーです」の応答が返るだけ)。その後完全にアクセス不能となってしまい、一部では帝国の崩壊喜ばれ囁かれたが、同年8月7日に復旧した。ただし、記憶喪失していたが。

ところが、2011年春頃より再度アクセス不能に陥る。一部情報では「今度こそ帝国が崩壊したのでは?」という声が囁かれていたが、8月下旬に復活した。

[編集] グループウェア化

2012年1月、新任の管理者「abcdefgh」により、突如として全ての匿名ユーザーが締め出しを受けた。具体的には、全てのグローバルIPが10.206.97.51[1]と誤認識されている。

2012年5月18日金曜日



作成者 : maya vision | カテゴリ : health | 日付 : | 表示 : 5

世界中のすべての部分から

多くの個人がいびきをかく。この状態は数秒間息の停止を引き起こす気道に影響を与えます。困らせると、個々の、彼の周りの人を苛立たせることができる格子の音でこの結果。あなたのいびきの問題を解決する方法の多くのメソッドが用意されています。


肩関節痛の砂糖

この条件は拡大扁桃腺、喫煙、鼻づまり、アルコール、老齢や肥満によって引き起こされる場合があります。いびきをかく人は、喉の後ろにある軟部組織の振動による格子の音になります。この刺激と妨害音が不眠の原因となり、また関係を台無しにすることができます。あなたはいびきをかく場合、

2012年5月16日水曜日




 アメリカには無数の宗教団体がある。狂信的で、社会のルールを無視して騒ぎを起こす原理主義の団体も珍しくない。一方で、ひたむきに信仰を追い求めながら、社会との折り合いを探る教団もある。

 キリスト教プロテスタント系のアーミッシュもその一つだろう。欧州の宗教改革で生まれた再洗礼派「スイス兄弟団」メノナイト派の分派で、迫害を恐れて米国に渡った。信仰の純粋性を守るため社会と一線を画し、電気を使わず、馬車で移動し、農業主体の生活を送っている。


TX、ダラスエリアの疼痛管理医師

 昨年4月、ペンシルベニア州ランカスターにあるアーミッシュの村を訪ねた。06年10月、村の学校に部外者の男が押し入り、少女5人を射殺する事件があった。

2012年5月10日木曜日


肥満

肥満はどの年齢でも誰も打つことができる病気です。大人も子供も – – 太りすぎている現在の推定1万人のアメリカ人で。これにはいくつかの減量方法およびこれらの統計情報を抑制する試みで、市場で販売されている製品があります。しかし、彼らは本当に効果的ですか?を調べるために読んでください。

肥満はあまり体脂肪が蓄積がある場合に発生します。病的肥満には、100ポンドがいる場合に発生します。肥満や40歳以上BMI値。様々な減量製品とプログラムが入手可能となっている。かれらの多くは体重を減らすために最も速く、最も容易な方法を提供すると主張している。いくつかの減量センターでは、効果的なものの、通常は高値との距離の潜在的な顧客になります。

体重を健康的な方法

健康的な減量の食事はあなたの健康問題に対する完璧なソリューションです。あなたは、高価なダイエットプログラムに加入しない、または任意の重量損失の丸薬を取る。良好な栄養状態、定期的な運動と協議あなたの医者との減量ダイエット健康。あなたの体は理解して健康的な減量の食事療法への第一歩。現実的なアプローチは、減量に

2012年5月6日日曜日


ジョージ・ワシントン英語: George Washington、グレゴリオ暦:1732年2月22日 - 1799年12月14日(ユリウス暦:1731年2月11日生まれ))は、アメリカ合衆国の軍人、政治家、黒人奴隷農場主であり、同国の初代大統領である。 死去した現在もアメリカ合衆国陸軍大元帥の階級にいる。

[編集] 生い立ち

ワシントンはバージニア州ウェストモーランド郡のコロニアル・ビーチ南部にあるポープズ・クリーク・プランテーションで生まれた。彼の誕生日は1731年2月11日(ユリウス暦)1732年2月22日(グレゴリオ暦)となっているが、グレゴリオ暦の方が有名である。日付が1年以上食い違っているように見えるが、これは、当時イギリスでは3月25日が年初日とされていたためで、生年そのものは1732年である。

ワシントンの一家はバージニア州で黒人奴隷プランテーションを経営し、後には鉱山開発も手掛けた。ワシントン家はバージニアでの指導層とまでは行かず、中流の郷士であった。彼の両親、オーガスティン・ワシントン(1693年 - 1743年4月12日)とその2番目の妻メアリー・ボール(1708年 - 1789年8月25日)は、イギリス出の家柄であった。オーガスティンは1657年にイングランドのサルグレイブからバージニアに渡って来たジョン・ワシントンの孫であった。先妻ジェーン(1729年没)との間に4人の子をもうけたが2人だけが成長し、後妻のメアリーとの間には6人の子が生まれ、5人が成長した。

ワシントンは幼年期の多くをスタッフォード郡のフレデリックスバーグに近いフェリー・ファームで過ごした。父のオーガスティンはジョージ・ワシントンが11歳の時に死に、14歳年長の長兄ローレンス(1718年-1752年)が父親代わりを務めた。ローレンスの義父ウィリアム・フェアファックスもワシントンの人格形成に影響を与えた。ローレンスが父の遺産の大半を相続し、その農園をマウントバーノンと名付けた。ワシントンはフェリー・ファームを相続した。

青年期は測量を学び、生まれ育ったバージニアの地形について知悉(ちしつ)するようになった[1]

1748年には農園主としての経歴を積み始め、またブルーリッジ山脈の西側の土地の測量にも請われて参加した。1749年、フェアファックスの後押しもあって、新しく作られたカルピーパ郡の測量士として始めて公的な役職に就いた[2]。 この仕事で得た収入でシェナンドー渓谷に新しく農園を購入したが、これがその後のバージニア西部における資産拡張の始まりとなった。この頃ローレンスの影響で西部の土地を開発することを目的として作られたオハイオ会社に興味を持った。また、バージニアの副総督(実質的な統括者)ロバート・ディンウィディとも知り合った。ワシントンは身長が6フィート2インチ (188 cm)あり(推定、資料により異なる)、よく目立った。

1751年に結核を患っていたローレンスが転地療養のためにバルバドスに渡った時、ワシントンも同行した。天然痘にかかるが無事に回復した。病気のあとは顔にあばたとして残ったが、これで免疫となったことはその生涯で経験した環境を考えれば重要なことであった。1752年2月4日にフリーメイソンに加わった。同年7月にローレンスが死去した。彼は最初、ローレンスのマウントバーノンの農園を借り、最終的には相続した。ローレンスはバージニアの民兵隊長を務めており、その死後は4つの地区に分けてそれぞれ隊長が配されることになった。ワシントンはディンウィディの指名でその1つを継承し、少佐となった [3]。地区隊長としてのワシントンは割り当てられた宿舎に入り、民兵の訓練を行った[4]

1753年12月、ディンウィディはフランスの軍事力やその考え方を探る目的でワシントンを、現在のペンシルベニア州ウォーターフォードにあったル・ビューフ砦に派遣し、伝言を伝えさせた。この伝言はフランスによるオハイオでの開発を止めるように要求したものであり、当然のように無視され、その後アメリカにおける2強国の対立が世界的な紛争に繋がる引き金ともなった。この時作成したワシントンの報告書は大西洋の両側で読まれることになった。

[編集] フレンチ・インディアン戦争

1754年にワシントンはバージニア市民軍の大佐に任命され、バージニア西部の一連の砦を構築した。彼はバージニア州知事によってオハイオ渓谷からフランス軍を排除するために派遣された。フランス軍は要求を拒絶し、ワシントンはフランス軍偵察部隊を攻撃、指揮官のジュモンヴィルを含む10人を殺害した。フランス軍の報復を予想したワシントンは小さな砦(ネセシティ砦)を構築した。しかしながらそれは無意味だった。ワシントンの部隊はフランス軍に数で圧倒され、低地に作られた砦は激しい降雨により氾濫に見舞われた。結局彼は降伏せざるを得ず、フランス軍とバージニアへの安全な帰還を交渉した。降伏の条件にはジュモンビル・グレンの戦いでフランスの斥候と指揮官を暗殺したという声明が含まれていた。フランス� ��から解放されバージニアに戻ったワシントンは降格されるよりも辞任の道を選んだ。しかしこの敗戦が結果的にフレンチ・インディアン戦争の開戦を招くこととなる。

1755年、ワシントンはフレンチ・インディアン戦争でオハイオ領土を取り戻すことを試みたイギリス軍のブラドック遠征に従軍した。西ペンシルベニアでのモノンガヒーラの戦いの間に、配下の3頭の馬が銃撃を受け、4発の弾丸が彼のコートを貫通した。この戦いで敗北を喫したものの、彼は退却の際に砲火の下の冷静さを示した。戦闘中のワシントンの役割はその後の議論の対象となってきたが、伝記作者のジョセフ・エリスは、ワシントンが戦場を馬で乗り回し、イギリス軍やバージニア民兵の残存兵を掻き集めて撤退させたと主張している[5]。 同年秋、バージニアの山岳地で難しい辺境の任務を与えられた。1758年、ジョン・フォーブスの遠征隊に参加し、この時はデュケイン砦のフランス軍を排除することに成功した。この年遅くワシントンは軍隊の現役から退き、その後の16年間はバージニアの農園主および政治家として過ごした[6]

[編集] 2つの戦争の間

ワシントンはニューケント郡パマンキー川の南岸にあるホワイトハウス・プランテーションに住んでいる未亡人、マーサ・ダンドリッジ・カスティスに紹介された。フレンチ・インディアン戦争の最中で休暇を取って帰った時に、マーサの友人が案内した。ワシントンは初めて会ってから3週間の間にマーサの家を2回訪れただけで結婚を申し込んだ。2人は共に27歳であり、1759年1月6日にマーサの家で式を挙げた。新婚の2人はマウントバーノンに移動し、そこでワシントンは上流階級の農園主で政治的な関わりを持つ貴族的な生活を送った。マーサの以前の夫、ダニエル・パーク・カスティスとの間にできた連れ子ジョン・パーク・カスティスとマーサ・パーク・カスティスを育て、2人を愛情を込めてジャッキーとパチィと呼んだ[7]。 ワシントン夫妻には子供が出来なかった。おそらくワシントンが天然痘に罹ったことがあり、その後結核によって無精子症になった可能性がある[8]。 後にジャッキーが死んだ1781年以後はその子供達、エレノア・パーク・カスティス(ネリー、1779年-1852年)とジョージ・ワシントン・パーク・カスティス(ワシー、1781年-1857年)を育てた[9]

ワシントンは裕福な未亡人と結婚してその資産を増し、社会的地位を上げた。結婚した時にカスティスの資産18,000エーカー (73 km2) からその3分の1にあたる土地を取得し、その残りはマーサの2人の子供たちのために管理した。その後も度々自分名義で土地を買い増していき、またフレンチ・インディアン戦争の報償として現在のウエストバージニアに土地の特許を認められた。1775年までにマウントバーノンは2倍の6,500エーカー (26 km2) となり奴隷を100人以上所有した。ワシントンは戦争の英雄としてまた大土地所有者として尊敬され、地域の役職を務め、1758年からはバージニア植民地議会にも選ばれた[10]

ワシントンは1769年に高まった植民地の反抗で指導的な役割を担った。このとき友人のジョージ・メイソンが起草した提案書で、タウンゼンド諸法が撤廃されるまではイギリス製品のボイコットをバージニア植民地に呼びかけていた。イギリスの議会はこの法律を1770年に撤廃した。ワシントンはその仲間の市民の活動も積極的に支援した。1771年9月21日、ボルチモアの商人ジョナサン・プローマン・ジュニアのためにニール・ジェイムソンに宛てて手紙を書いた。プローマンはその所有する船が無許可品を輸出した廉でボストンのフリゲートに拿捕されており、その船を取り戻すためにワシントンの助力を求めてきていた[11]。 ワシントンは、1774年の耐え難き諸法の成立を「我々の権利と主権に対する侵害」と見なした。7月、ワシントンは会議を主宰し、大陸会議の招集を求めるフェアファックス決議を採択した。8月、バージニアの最初の会議に出席し、第一次大陸会議の代議員に選ばれた[12]。 1776年、トマス・ペインの『コモン・センス』を読むまで彼は植民地の独立を支持しなかった。

2012年5月3日木曜日


(かつての問題に言及したデミ)

歌手デミ・ロヴァート(19)が、かつて摂食障害や自傷癖などを克服すべくリハビリ施設滞在を経験したことを知っているファンは多い。だが「ドラッグ」や「アルコール」の摂取については憶測ばかりが流れ、本人があれこれと言及することは皆無に等しい状況であった。そんな中、デミは有名人であるがゆえにそういったものを次々と提供された過去があることを雑誌インタビューで認めた。

2012年5月1日火曜日


背景:
適度な運動は身体にも精神にもとてもよい影響を与えると考えられている。例えば身体的には脂肪を燃やすことによって、肥満や糖尿病だけではなく癌を含む様々な疾患に効果がある。では、なぜそのような効果が表れるのだろうか。

要約:
現在先進国を中心に、肥満や糖尿病を含む生活習慣病の増加が問題になっている。食生活の変化に加え、運動不足も大きな問題であると考えられ、適度な運動は様々な疾患を予防すると考えられている。しかしそれが何故なのかは分かっていなかった。